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家庭団コータリー
2014.04.29(火)

家庭団コータリー 2014年4月-6月号

ささやかな平和を  田中 禎一

「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(ローマの信徒への手紙12章18節)と嘆願するほど、社会から悪影響を受けたクリスチャンの現状に、パウロは困惑しました。その前の九節には、「善から離れず」とあります。この「離れず」には「しがみつく」の意味があります。あなたにふさわしい生き方―それは「偽りのない愛」に生き、しがみつくように「善をもって悪に勝つ」ことです。悪に悪を返すのは、あなたにふさわしくありません、と勧めています。

人への配慮のない言行が目立ちます。子どもでも、「やられたら、やり返す。やり返さなければ損だ」と、損得を考えています。本当に損なのでしょうか。「変だぞ!」と冷静に考えることも、時に必要です。

例えば、電車の中で、隣りの席に無理やりに座られたとしましょう。「失礼なやつだ、動くもんか!」と押し返します。座ってきた人は、「座る権利がある。邪魔するな」と怒っているかもしれません。どちらも居心地の悪い思いですから、マイナス1点としましょう。点数化できる事柄ではありませんが、考える参考にはなります。両者は嫌な思いですから、マイナス1足すマイナス1はマイナス2で、険悪な状況です。でも、あなたが「気にしない」とほっておけば、点数はマイナス1。さらに、「お疲れの様ですね」とちょっと席を譲(ゆず)れば、良いことをしたのでプラス1で、合計は0。まあまあな状況になります。ところが、意外な展開もあり得ます。あなたが譲ると、相手も自重し、更には、「意地を張らずに、少し身を縮めようか」と、譲り合いに発展すれば、相手もプラス1で、合計はプラス2。あなたの行動次第で、「平和を実現する人々は、幸いである」というイエス様の声が聞こえてきそうです。

桜

「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(12章10節)米国のメジャーリーグで活躍する日本人選手に一喜一憂します。インタビューの中で、以前は相手チームへの「リベンジ(復讐?)」を耳にしました。最近は同僚への「リスペクト(尊敬)」が多くなりました。同僚を尊敬する中で、同僚が力を発揮し、自分も受け入れられていく。この尊敬を超える愛の持ち主は、母親でしょうか。

亡くなられた三遊亭円楽は、修業時代に行き詰まり、駅のホームから、走ってくる電車にふっと引き寄せられました。その時、弟弟子の小松に声を掛けられ、足が止まり、小松に送られて、家に帰りました。するとお母さんがやってきて、「お前の話を聞いてみたいから、何か話をしておくれ」と言うのです。恥ずかしいので、と断ったのですが、しきりに頼むので短い落語をしました。じっと聞いていた母親は、「お前は名人だよ」とひとことポツリと言ったそうです。円楽は、母親の言葉で立ち直り、自信を持ち、努力が実り、翌年には真打になったそうです。

母親には及びませんが、尊敬をもって相手を優れた者と思う時、その賜物が見いだされ、磨(みが)かれ、発揮され、開花します。喜ぶ人と共に喜ぶ。すてきな生き方ではないでしょうか。

(財務管理部長 少佐)



6月礼拝プログラム

人生のエンディングに思うこと  山谷 昌子

聖書箇所 ルカによる福音書2章1-7節
救世軍歌集 48番 冬の夜の空に

聖書箇所 ヨハネによる福音書 14章1節
救世軍歌集 144番 おどろくばかりの

エンディング、人生の終末期、そして死後の世界を考えると、考えても考えきれない、わたしたちの考えを超えた、神秘がそこにあるような感じがあります。
わたしたちは死んだらどうなってしまうのだろう、その明確な答えを出せる人はこの世には誰もいないでありましょう。
しかし、聖書にははっきりと、死後、わたしたちはどこに行くかということを示しているのであります。
聖書にあるその答えは、わたしたちの今持っている肉体は滅びる。しかしわたしたちの霊・魂は神様のもと、天国へ行くというものであります。

そのように言われても、本当に魂・霊があるのかという疑問が生じます。わたし自身、救世軍の士官であっても、そのことについては常々自問自答しています。
ただわたしはかつて、幽体離脱のような経験を三回ほどしたことがあります。それが本当のことだったのか、あるいは、夢や幻だったのか、本当のところはわかりません。ただその経験を通して、霊が自分の体を離れ、自分が横たわっている姿を見たことによって、本当に霊の世界はあるのではないか、という思いを強くいたしました。しかし、そんな体験をしても、いまだ疑心暗鬼しています。
わたしたちが「死」を恐れるのは、死んだらわたしたちはどうなってしまうのだろうか、死んだら何もなくなってしまうのではないか、ということを考えてしまうからではないでしょうか。でも、もしわたしたちは、今いるこの世界から違う世界に移されると考えることができたら、わたしたちの感じ方はだいぶ違ってくるのではないでしょうか。

先日、ある方の葬儀に行って来ました。百一歳の方でした。亡くなるちょっと前までとってもお元気で、わたしたちにとったら突然亡くなってしまった、という感じでありました。でも、その方の死は、亡くなったというよりは、ただ神様のもとに移された、ということが伝わってくるような、静かな、静かな、安らかな、安らかな、そんな姿でありました。その姿は、いわゆる「死」というものとは、ほど遠いものでありました。その方の霊・魂が、神様のもとにただ移された、そんな姿を見た思いがいたしました。またその姿を見たとき、美しささえ覚えることができました。

聖書の一節をお読みいたします。ヨハネによる福音書14章1節からです。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」
この聖書のお言葉は、イエス様がわたしたちのために、天国に住む場所を用意してくださっているということであります。そのお言葉を、わたしたちはただただ信じていきたいと思います。

わたしの主人の父は、四年前に救世軍の病院のホスピスで亡くなりました。父が他の病院からホスピスに移ってきて、そこで過ごしたのは、わずか二日間でした。しかし母は、父が最期のときをホスピスで過ごすことができたことを、大変喜んでいました。
もうすぐ最期を迎える父の傍らで不安を覚えていた母に、チャプレンが少し冷めかけた紅茶を持ってきて、静かに寄り添ってくださいました。「それまで心が騒いで、ゆっくりお茶を楽しむこともできなかった。でも、その一杯の紅茶で、張りつめていた気持ちを休めることができた、ホッとすることができた」と母は語っていました。
わたしたちもまた、疲れを覚えている方々に一杯の紅茶をさしあげて、静かに寄り添う者となりたいと思います。

現在、救世軍横浜小隊横須賀分隊では、毎月第四週目の日曜日、月に一回ではありますが、分隊軍曹はじめ、横浜の小隊長、そして戦友たちと心を込め祈りながら、横須賀の人々に、真の平和とキリストの救いをお届けしたいと、一つ一つの集会を準備し、この場所で静かな安らぎのときを持っています。誰かに話を聞いてもらいたい、心を静めるときを持ちたいと願っておられる方は、どうぞ第四週目の日曜日、この場所にお出かけくださいますようにご案内します。また、コータリーを手にされたお一人ひとりが、例会で、また個人のお祈りのとき、横須賀分隊を覚えて、祈りによるお助けをいただければ幸いです。

(山谷昌子少佐はこのたび、横浜小隊より渋谷小隊へ転任されました。)

(渋谷小隊長・少佐)

花

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