依頼前テスト_2019/11/9 (土) 京橋小隊バザー
- バザー
はっきり言っておく。
わたしの兄弟であるこの最も
小さい者の一人にしたのは、
わたしにしてくれたことなのである。日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書25章40節
私は、誰もが知っている「社会鍋」です。毎年クリスマス近くになると必ず私の仲間が全国の救世軍人と共に街頭に立ち、道行く人々に親しまれ愛されております。しかし私の生い立ちと申しますと、あまりご存じないと思いますので、お話しいたしましょう。俳句の季語にも詠われ、師走の訪れを告げる催しとして知られているのは、うれしいことです。
私の名前は「社会鍋」と言います。 先祖の名前は’Christmas Kettle(クリスマスケトル)’と言われました。そして先祖の第1号は日本で生まれたものではありません。今から百年程前、1894年の不景気の最中、アメリカ・サンフランシスコで生まれたのです。 その当時をふり返って見ますと、貿易はふるわず、幾百の船員が失業をして、その家族は非常に苦しい生活を送っていました。
ちょうどその頃、サンフランシスコの救世軍の小隊長(牧師)、ジョセフ・マクフィー大尉という人がいて、以前は商船の船員でしたが、当時の連隊長(教区長)ウイリアム・マッキンタイヤ中将からの命令で、恵まれない船員の家族にスープの給食をする事になっ たのです。そこでマクフィーは沿岸地域の資産家たちに寄付をもらいに行き、幾分か成功したのですが、予算通りには集まりませんでした。
クリスマスが近づいたある朝、船雑貨屋のショーウィンドーに、三脚につるした船員キャンプ用の黒壺が飾られておりました。これを見てマクフィーはハタとひざをたたき、早速それを二組買い求め、オークランドとアラメダの繁華街の入り口にそれを立てて「救世軍のスープ接待にご協力ください」という看板をぶら下げたのです。彼はその側に立って、通行人に「恵まれない船員にご同情下さい」と叫ぶと、たちまち同情が集まり、われもわれもと、コインが黒壺の中に投げ入れられたのです。
こうして世界最初の『救世軍クリスマス・スープ接待』が始められ、失業した船員の家族は思いがけない接待を受け、幸福なクリスマスを迎えることができました。それから誰言うとなくこの第1号の黒壺を’Christmas Kettle’と呼び、翌年の1895年の12月24日、クリスマス・イブにはアメリカの各所で一斉に、街頭に第2号の’Christmas Kettle’が大量に出され、「たえずこの壺を煮立たせて下さい」の札が立てられました。
それから3年後、『ニューヨーク・ワールド』の新聞紙上に救世軍の’Christmas Kettle’の論評が出て「これは最新式で高尚な趣向の募金方法である」と書き、「民衆の目にふれやすいように赤い棒の三脚に平凡な壺をつるして募金箱の代わりをつとめさせる事は、救世軍独特の考案であるから、この方法は、ほかのどの団体も模倣してはならないものである。」と世論に訴えたのです。
こうして1900年には世界各国にこの募金方法が伝えられて、毎年クリスマスの時期に50万世帯がその恩恵に浴したのです。この募金の方法は日本にも伝えられ、私は活動するようになりました。
1906年(明治39年)日本は日露戦争直後で失業者が沢山でた年でした。師走を前にして、当時、救世軍の日本の司令官ブラード大佐は「慰問かご」の計画と題し救世軍公報紙『ときのこえ』紙上に「大佐の書簡」を発表しました。
それによれば、
私たちの周囲には恵まれない人々がおり、彼らにとっては、年末年始は最も暮らしにくいときであります。時候の寒い上に、仕事が休みになって、その日暮らしの人々の困難は並大抵のことではありません。お金もなく、食もなく、楽しみもない、貧しい人々のために、ミカンかごのようなものにいっぱい入れ、何か食物でも、子供のおもちゃでもよいから買い求めて救世軍本営に送って下さるか届けてもらえば、貧しい人々に配ることが出来ます。しかし、次の三点に注意して下さい。
- 自分で「慰問かご」をととのえてこれを銀座2丁目の救世軍本営に届けていただく。
- 何か品物を本営に送っていただくと、救世軍でこれを用いて「慰問かご」を作りますので材料を提供していただく。
- 金銭を送っていただければ、本営で見計らい、「慰問かご」を作らせていただく。
ということでした。
この計画は成功し、当時3大貧民窟といわれていた下谷の万年町、芝の新網、四谷の鮫が橋等の困窮家庭に、正月用の餅、ミカン、タビ、手ぬぐい、書物など をミカンかごに入れて配られたのです。そしてこの運動は東京市中のみか横浜、神戸、仙台、前橋、高崎、横須賀と拡大されていきました。
この時、救世軍の良き理解者であった『東京毎日新聞社』の主宰者、島田三郎氏は紙面の一部を割いて寄付を呼びかけてくれました。またこの機会に山室軍平は、寄稿して得たお金をこの働きに充てたのです。けれども島田氏の手から『東京毎日新聞』が離れてからは、ほかに適当な募金の方法が必要になってきました。
そこで私が登場するのです。
1909年(明治42)当時日本の救世軍では山室軍平中将が少佐の時代で「失業者救済対策」として街頭集金をする事となりました。募金の方法はアメリカの’Christmas Kettle’のアイデアを取り入れ、スープ壺の代わりに、年越し雑煮というつもりで鉄鍋をつるす事になったのです。東京市中の主な角々に集金用に鍋をつるし、そのわきに士官・兵士が立って寄付を仰ぐ事になりました。
アピールは「通りがかりに出来る慈善」とうたい、鍋に集金する事から「集金鍋」と私を呼んだのが日本で最初の事です。これが歳末助け合いの 街頭募金の元祖となりました。しかし誰彼となく「慰問かごの鍋」「三脚鍋」「三脚の慈善鍋」と呼ばれるようになり、大正時代になって「慈善三脚鍋」さらに「慈善鍋」と呼ぶようになりました。
それぞれ異なった呼び方をしていても、その土台は、貧しい人々に雑煮餅、ミカン、菓子等の入った「慰問かご」を贈るための慈善のお金を集める事でありました。
こうして私は庶民に親しまれるようになったのです。
1921年(大正10年)12月には「社会鍋」と改称されました。それは“「慈善鍋」という名は救世軍でつけた名ではなく、自然にその名で通ってしまったものです。しかしその当時と今日とでは社会状態なり、慈善に関する社会一般の思想が変わってきている”というものでありました。
大正10年12月15日号『ときのこえ』紙上で、救世軍本営の立場を明確にしました。そして社会鍋で集められたお金の用途も慰問かご配布から、冬期無料宿泊所、冬期給食活動、また、他の慰問活動へと拡がっていったのです。また、暮れ以外にも、災害、救済など、必要なときには社会鍋を立てて街頭募金をしました。
慰問活動のユニークなものとしては、1929年(昭和4年)に始めた、水上生活者の船を訪ねて子供たちにプレゼントを配る「水上クリスマス」でしょうか。また、多くの病院、老人ホーム、母子寮、刑務所、要保護家庭を訪ねたり、慰安会を催して、母子、老人等を招き、慰問品を配布するなどして、救世軍人は慰問活動をしたのです。
こうして以来今日まで、神の愛と、皆さまの善意に支えられて、『救世軍社会鍋』があるのです。雪が降っても、風が吹いても、私は顔を出します。歳末の風物 詩・街頭名物というだけでないことをご理解いただけたでしょうか。
明治・大正・昭和・平成と時代は変わっても年末の街角で皆様から愛され続けています。年末の街頭だけご協力をお願いしているのではありません。ぜひご協力をお願いいたします。(郵便振替やクレジットカードでもご送金可能です)
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救える人々がいます
あなたの小さな心遣いで貧困や病気に苦しんでいる人、教育を受けられない子どもたち、災害の被災者などを助けることができます。あなたの想いを彼らに届けることができます。ご支援という形で寄付に参加してみませんか。
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